「聞く技術 聞いてもらう技術」

読 書

「聞く」と「聴く」。
どちらかといえば、「聴く」の方がこういう時には対象になるように感じる。
けれどこの本では「聞く」を徹底して深堀していて面白い。

なるほど、確かにねぇ。とううなずく事が多かった。
「聞く」は日常だ。そして、日常の中の「聞く」に大きな役割があるという。

確かにその通りかもしれない。
私達は日常の中の「聞く」が当たり前に繰り返されているときには、実は大切な何かをやり取りしているのだろう。そしてそれは日常で、取るに足りないことも含まれる。

例えば、お母さんが常に家の中でやっていてくれていることは、お母さんがいなくなるととてもはっきりわかる。
溜まっていく洗濯物、ごみ。当たり前にできていたことが、つまずきつまずき、流れていかない。

日常の「聞く」の大切さは、そういう時によくわかるという。

まるで空気のように。。

「対象としての母親」と「環境としての母親」
「対象としての母親」といいうのは、たとえばあなたが今、心に思い浮かべている母親の姿のことです。
母親はこういう人だとか、こんな思い出があったか、ひとりの人としての母親の姿があなたの記憶に残されていると思います。一人のひととして母親を思い出す時、あなたは「対象としての母親」を意識しています。
それに対して、「環境としての母親」は、あなたに気がつかれず、意識とされない母親のことです。
「環境としての母親」は見えません。ふしぎなことを言っているように聞こえるかもしれませんが、神秘的な話をしているわけではありません。
たとえば、子どもの頃、タンスを開けたら、綺麗にたたまれたTシャッがしまってました。本当は母親が洗濯をし、干して、そしてたたんでくれたからのだけど、あなたはいちいちそんなことまで考えなかったはずです。何も考えずに、シャツを取り出し、着て、学校に行く。(中略)
これを毎朝、「今日もお母さんが洗濯をしてくれたんだ、本当にありがたいな」「しわひとつないや、感謝です」と思っている子どもがいたとするなら、親子関係にかなりリシビアなことが起きているのではないかと心配になります。
「環境としての母親」は普段は気づかれない。失敗したときにだけ、気づかれる。そういうときに、「環境としての母親」は「対象としての母親」として姿を現します。
タンスにTシャツがなかったときに、「あれ、お母さんどうかしたのかな」と思い出すし、うまくいっているときには存在を忘れられ、うまくいかなかったときだけ存在を思い出される。逆に言えば、感謝もされないくらいに自然に行われているときに、お世話はうまくいっている。

「聞いていたつもり」「聞いてもらっていたはず」
「言っている」「言われていたかもしれない」
こんなこと日常の中であまりにもたくさんある。

いつもは問題にもならないことが、いざというとき大昔の事まで引っ張り出される。。笑笑。。

その時に「ちょっと待てよ。もう一度最初から話始めよう」「聞き始めよう」
そう言いあえる間柄であることや、その状況を取り戻せるマインドが大切かもしれない。

言葉が届かない。これが政権の寿命を縮めた。だから、「なぜ聞かないのか?」
と問いたくなったとしても不思議ではない。だけど、その問いは不毛だ。コミュニケーションがうまくいかないとき、その原因を相手の耳に求めるならば、事態は余計にこじれていくだけだからだ。関係の改善を望むのであれば、問われるべきは自分の言葉だ。いや、違う。より根源的な問題は自分の耳にある。話を聞いてもらうためには、先に聞かなくてはならぬ。聞かずに語った言葉は聞かれない

当たり前のことの難しさと、大切さ。
簡単なことの大切さを失わないマインドをプロの視点から教えてくれる。

人間にとっての真の痛みとは何より孤独であることです。聞くには現実を変えるちからはなくとも、孤独の痛みを慰める深いちからがあります。

まとめましょう。
「聞く」は普段はグルグル回っています。だけど、欠乏によって、その循環が壊れてしまう。そういうときに、孤独が生じ、関係が悪化していきます。
「聞く」が改めて必要になるのは、ここです。
欠乏は変えられなくても、そこにある孤独と向き合うことはできます。自分のせいで痛みを与えていることを、聞く。それが、関係が悪化しているときに、何よりも必要なことです。
「聞く」とは「ごめんなさい、よくわかっていなかった」
と言うためにあるのだと思うのです。

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